自然から糧を得ながら、まのいい暮らしを目指します
自然から糧を得る。
日本は太古より自然に恵まれた土地です。ここに住む人々はその恩恵を受けて現在まで生を繋げてきました。
しかし、現在の過剰とも言える人口の食を支えているのは、自然というよりも、社会システムです。この社会システムは、人類が叡智を重ねて作り上げてきたものですが、無理や綻(ほころ)びがないとは言い切れません。
もちろん、現代の社会システムにも、根幹には自然があります。しかし、そのことはとても見えにくくなっている。そういったことに気がついたときから、私たちは、社会システムに依り過ぎず、自然から糧を得ることを生活の中心に据えたいと願うようになりました。
そして、ここがとっても大切なポイントなのですが、自分たちの手で自然から得た糧は、とても美味しいということ!さらに、糧を得る営みそのものが、ものすごく面白いということ!
私たちは、自然から糧を得ることを通じて、食とは何か、生命とは何かを考え、また、感じながら、そういった活動を社会に還元していきたいと考えています。
まのいい暮らしを目指す。
暮らしの基本は家。家のことにまつわる仕事すべてが家事です。私たちは山間の家を拠点にして、まのいい暮らしを模索し、実践していきます。
では、まのいい暮らしとは一体なんでしょう?
もともと、「まのいいりょうし」というプロジェクト名は、福音館書店の絵本『まのいいりょうし』からとりました。このお話は、とある猟師さんが、息子の七つのお祝いに「何か旨いものでも食わせてやろう」と猟に出たら、芋づる式に獲物を仕留めていくという、まさに「まのいい」話です。
ですが、実は、この物語の一番「まのいい」ところは、この日が子どもの誕生日であることなんです。家族だけでは消費しきれない抱えきれないほどの猟果ですから、それでご馳走をたんまりつくって、近所中の人を呼び集めることができる。呼ばれた方ももちろん嬉しいので、感謝と共に、大勢で賑やかに子供の誕生日を祝う。これって、とても「まのいい」ことだと思いませんか?
思うに、「まのいい」という言葉は、運がいいという意味に違いないのですが、単なる一方的なラッキーというのではなく、双方向的なグッドタイミングのニュアンスが多分にあるのではないでしょうか。例えば、処分したい廃材がたくさんあって困っている人がいるところに、廃材を使いたい人たちが現れて、それを貰い受ける。これってとっても「まのいい」ことだと思います。
一方で、「まのいい」の「ま」とは、漢字で書けば「間」でしょうから、時間や空間、手間といった言葉にも通じます。
つまり、家事の手間を減らし、ときには料理に手間をかけ、日々の時間を慈しみ、心地の良い空間を作っていきながら、双方向的なグッドタイミングを大切にする。それが「まのいい暮らし」です。
と、鼻息荒くそう定義したところで、具体的にはよくわからないところもありますから、とりあえず、「あ、それ、まがいいね」ついそんなことを言ってしまうような語感を大切にしながら、暮らしというものを見つめ直していきたいと思っています。
山の家の庭にはふきのとうやウドなどが芽を出す。
ある日の漁労の成果(魚突き)。キジハタ(アコウ)、アイナメ、そして日本海では珍しいヒゲダイ。
家の裏で罠にかかったシカ。
絵本『まのいいりょうし』。息子の7歳の誕生日に、ちょっとしたアクシデントを乗り越えて猟に出た猟師の、大げさな法螺話のようで、自然と楽しめる、なんとも愉快な物語。猟果を近所中に振る舞って、皆で7歳の誕生日を祝ったという大団円は私史上最愛の結末。[amazonでみる]
岩美町の美しい海
改修前のまのいい邸
まのいいりょうしのあるところ
山の家のこと
「山の家」は、まのいいりょうしの理念、「自然から糧を得てまのいい暮らしを目指す」ための基地であり、私たち家族の生活の場です。
「山の家」がある集落に初めて訪れたときのことは今でも忘れられません。初夏、濃緑の山間の道を走り、トンネルと抜けると少し開けた谷間に、小さな集落がありました。いい陽気だったこともあり、その風情は、まるで、いつか映画でみたチベットのようでした。それ以来、僕はこの小さな集落のことを「鳥取のチベット」と呼んでいます。
「山の家」は、そんな集落の一番上手にある小さな平屋です。この場所を自分たちの手で改修し(すなわち低予算)、まのいい暮らしの基礎となる場所を作っていきます。